Koushoublogによると、日本でも、古来は、天譴論のなかみは、天が為政者に対して与えた譴責としての災害であったというが、関東大震災の際に、天譴論は被支配者側に罰を与えるようすりかえが起きたという。石原都知事の天譴論が自らの都知事選への出馬の意向をつたえた記者会見の席上、述べられたことは、誠に印象的ではある。為政者の立場にある者が、自己弁護を通り越して大災害を天譴というのは、いささか度を超している。
このKoushoublogによると、こうした論は被災者だけではなく、一般庶民の復興への気持ちを萎えさせるという。そして、以下のように述べる。
今回の石原都知事の発言は本人が天罰だと思うのは勝手だが、それを都知事という公的な地位にある人が口にしたとき、被災者に対する冒涜という以上に、日本社会全体に広がる「無常観」的な災害観と強力にリンクしやすく、人に「諦め」を誘う。ひいては民間の活力を奪い、災害に立ち向かおうという積極的な意思を阻害してしまうという悪影響を及ぼしてしまいかねない、非常に危険な発言である。リーダーが決して口にしてはいけない最悪の言葉だ。
そして、上記の「天譴論」後の歴史を振り返ってみればわかるように、個人が前を向いて歩こうとする力が奪われた、まさにその時、この国は滅びたのである。歴史の失敗を繰り返してはならない。
奇しくも蓮舫大臣との会談と、その後の出馬会見がその発言の場となったわけだが、まさにこの天罰発言によって、次の都知事選挙は前進か停滞かという選択選挙であるという側面を強く象徴することになった。"石原慎太郎候補"は自らの発言で、「自らの意志で前進する都民の前に立ちはだかる壁」であることを選んだのである。
このブロガーの別の発言も含めて、石原都知事の言動、行動などを見守っていかねばならないだろう。
易姓革命:「天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革(あらた)める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。無論、神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。」ウィキペディア:易姓革命:http://ja.wikipedia.org/wiki/易姓革命
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